「奴隷の鎖自慢」から、「奴隷が物自慢」に陥っていた事に気付く。

昔々、ネット閲覧をしていると、「お前達は奴隷だ!」や、「俺達は奴隷だ!」なんて書き込みを見掛けると、「かわいそ~、俺は奴隷じゃなくて良かった~、ホッ」としたものです。

が、その言葉が気になって、何度も何度も考えさせられ、結果、自分も奴隷だったという事に気付きました。

所謂「奴隷」とはちょっと言い過ぎかもしれませんが、考えれば考えるほど、自分の境遇は完全に奴隷状態だと認めざるを得ませんでした。

奴隷の鎖自慢

以下、「奴隷の鎖自慢」というコピペ。

ネットで調べると、元ネタはアメリカのリロイ・ジョーンズという人の言葉らしいです。

が、はっきりとした出典は定かではないようです。

奴隷は、奴隷の境遇に慣れ過ぎると、驚いた事に自分の足を繋いでいる鎖の自慢を始める。

どちらの鎖が光っていて重そうで高価か、などと。

そして鎖に繋がれていない自由人を嘲笑さえする。

だが奴隷達を繋いでいるのは実は同じ鎖に過ぎない。

そして奴隷はどこまでも奴隷に過ぎない。

過去の奴隷は、自由人たちが軍事力によって征服され、やむなく奴隷になったものだった。

彼らは、一部の特権奴隷を除けば、奴隷になっても決してその精神まで譲り渡すことはなかった。

その血族の誇りや、父祖の文明の偉大さを忘れず、隙あらば逃亡し、あるいは反乱を起こして、肥え太った主人を血祭りにあげた。

ところが現代の奴隷は、自ら進んで奴隷の衣服を着て、足や首に鎖を巻き付ける。

そして、何より驚くべきことに、現代の奴隷の多くは、自らが奴隷であることに気付いてすらいない。

それどころか彼らは、奴隷であることの中に自らの唯一の誇りを見い出しさえしている。

以上、物とは関係ない話ですが、私の場合は「鎖」から「物」が連想されました。

最初の部分を読むと、無駄に高い車や装飾品をローンで購入しては、その支払いの為に、苦しい状況(頑張る)を喜ぶ姿が浮かびます。

後半部分を読むと、CMや外圧によって扇動され、必要の無い物を買って(買わされて)は、それらの支払いの為に自由を失い、身動き出来ない状態が浮かびます。

「奴隷の鎖自慢」を読んで、過去の自分は正しく、「奴隷が物自慢していた・・・」と連想させられます。

物に心を囚われていると、物へ人生を捧げる事になってしまう。

物は大事です。

自分の生活を助けてくれるし、心豊かにしてくれる。

が、誤って持ちすぎると、その物達に支配されてしまう事に。

昔はそれで良かったのかもしれませんが・・・

それは勘違いだったかも。

物の呪縛から解放されないと、奴隷状態から抜け出せない

オーバースペックで過剰に豪華な車や、何の腹の足しにもならない豪華な装飾品など。

それらを欲しいと思う気持ちは解ります。

が、そんな物必要だろうか?

と、冷静に考えると、絶対必要無いし要らない。

しかし、

「同調圧力」

「優位に立ちたい」

「優越感に浸りたい」

「あの人が持っているから私も欲しい」

「他人の物差しに自分も合わせる」

なんて、外圧や他人の目を気にし出すと、奴隷状態に陥りやすい。

そう感じます。

と言うか、間違いなくそうなってしまう。

「車は動けば充分、役に立たない物は必要無い!」

と、奴隷にならないためにも、周りに惑わされず、自分基準の物差しで取捨選択していきたいものです。

慣らしながら少しずつ脱出していく

昔の話ですが、考えを突き詰めていくと、沖縄の無人島で1人で全裸で暮らしている長崎真砂弓さんのような生活を切望した事があります。

ちょっと飛躍し過ぎた想いと、現状のギャップに悶絶した時期がありました。

長崎さんの、「人間には従わんけど、自然には従う」といった言葉が印象深いです。

言いなりになるぐらいなら全裸で生活するって潔いです。

憧れます。

しかし、現実的に自分には無理そうだし、やるにしてもいきなりは無理。

という訳で、今自分に出来る事は、せいぜい、物の呪縛から解放される事により、

奴隷状態から遠ざかるという手段ぐらい。

そんな考えにより、断捨離を継続してきた事によって、昔の奴隷状態からは、いくらか脱出出来ています。

と勘違いしてるだけかもしれませんが・・・

まぁ、これからも、自分の想いを信じて、ささやかな抵抗ですが、奴隷脱出作戦を少しずつでも進めていきたい次第です。

ブルースピープル リロイジョーンズ(アミリバラカ)著