【墓参】手を合わせると落ち着くのは何故だろうか?

手を合わせると落ち着くのは何故だろうか?

先日、妻と墓参りに行きました。

あいにく外は激しい雷雨。

わざわざそんな日に行く必要はなかったのですが。

 

案の定、他に墓参りしている人は誰も居ません。

雨に濡れてびちょびちょになりながら墓掃除です。

掃除を終えるとお供え物をして手を合わせました。

 

目を瞑って手を合わせると気持ちが凄く落ち着きます。

また、幸せとは言い過ぎですが、そのような感覚にもなるような。

いつまでもこのままの状態を続けたいという気持になります。

 

自宅でもたまに線香を焚いて手を合わせる事があります。

同じく気持ちが落ち着く。

常々この感覚を不思議に思っていました。

 

ネットで「手を合わせる 落ち着く」で検索してみると、同じような気持ちを抱く人がいました。

なかには気持が落ち着くので墓参りが好きという人がいたり。

気持ちが落ち着く事に対して各々様々な見解が有るようです。

で、私も理由を考えてみました。

 

お墓参りの過程

「そろそろお墓参りの時期だ」との意識が働く。

お墓参りに行く意志決定を下し日時を決める。

当日、準備を整えて出発。

途中でお供え物を入手する。

現地に到着し「よしやるぞ!」と志気が上がる。

墓掃除を開始。

それなりに衣服が汚れ、疲れも出る。

終了後、少しホッとしつつ供物を供える。

厳かな雰囲気と気持ちが高まってくる。

全ての準備が整ったところで、手を合わせる直前となり、線香に火を点ける。

線香を供える。

一気に厳粛な気持ちになり合掌。

気持がご先祖様へ一点集中し、冥福を祈り、感謝の気持ちや報告を心の中で語りかける。

その際、それ以外の一切の事柄への想いは無となる。

無。

 

気持が落ち着くのは、無になれるからだろうか?

以上、自分なりの、手を合わせるまでの過程を列挙してみました。

過程を振り返ってみたところ、「一点集中」と「無」に引っ掛かりました。

ご先祖様に向き合う瞬間は、ご先祖様への想いに一点集中します。

それ以外の事は何も考えませんし、思い浮かびもしません。

それ以外の事は「無」です。

この、1つの事に対して集中力を高めていき、それ以外の事柄を排除出来た瞬間に、心が穏やかになり、気持ちが落ち着いたり、多幸感を生じる。

簡単に言うと、「ストレスフリーからの絶頂状態」となった瞬間でしょうか。

そう思いました。

 

日々の生活のなかでは常にやる事があったり、何かをやらなければいけないというような強迫観念を抱く事となり、常に頭が一杯です。

そんなときに合掌して一心不乱にご先祖様へ想いを馳せる。

結果、日々の忙しさから一瞬だが解き放たれる。

その解放された瞬間に気持ちが落ち着くというのは当然の事かもしれない。

 

また、神社でお参りすると心に良い作用をもたらすという話を聞いた事があります。

神社で手を合わせて願い事をする場合など、かなりポジティブ思考になって、一心不乱にお願いしますよね。

それも正しく、「ストレスフリーからの絶頂状態」ではないでしょうか。

 

まぁ、実際のところはよくわかりません。

しかし、手を合わせる事は心に良い作用をもたらしているのは間違いない事を実感します。

また、そんな行動が幸せにも繋がっていくような気もします。

 

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