身軽さの味を占めたら後戻りは出来ない。

捨てるのは大変

物と決別する作業は大変だった。

一番大変に感じたのは、「捨てるべきか否か?」

と、そんな事を考えさせられ、悶々と葛藤させられた時間だろう。

自分がもう一人の自分に「捨てろ!」と説得していた時間。

その説得に応じないもう一人の自分。

変えたい自分と変えたくないもう一人の自分とのせめぎ合い。

 

続けて身軽さを拡大

せめぎ合いの末、物を捨てる事になり、経済的負担は軽減され、ちょっと身軽になれた。

更に物を減らし続けると、更に負担は軽減され、その分、労働を減らす事が出来た。

またちょっと身軽になれた。

何度か繰り返していくと、減らせば減らすほど身軽になれるというシステムだったとの確証を得られ、おののきながらの捨て作業から一変し、捨てる事が楽しくなる。

 

「身軽」は「楽」へ繋がった。

 

  • 楽=心身に苦しみがなく安らかなこと。

 

そうして「身軽になる事」が自分の中で大きく意識させられる事柄となっていく。

 

益々身軽さを追求する事に。

物だけに限らず、様々な事柄へも波及した。

 

世間が言う「常識」や「あたりまえの事」などへ。

 

それって必要なのか?

「常識」や「あたりまえの事」は、どこかの誰かが自分の都合が良いようにこじつけ作り上げたものに他ならない。

そんなどーでもいい事を押し付けられ、いつの間にか囚われるようになるから、きつい状況に追い込まれる。

なのでいっその事捨ててしまえ!

と。(もちろん捨てちゃいけない事もあるよ)

結果、またまた身軽になった。

 

身軽さの味を占めたら後戻りは出来ない

身軽な状態を得るまでの過程で、いろいろ経験しました。

リバウンド、断捨離依存症、虚無感、労働意欲の低下、貧乏になった、世間との乖離など。

捨てる捨てないで、妻と喧嘩になったり。

疲れて、一切の事を中断したときは、完全に呆けてしまい、記憶力が恐ろしく低下した事もあった。

道の途中は好ましい状態とはほど遠い状態だった。

傍から見ると、完全に可愛そうな人でしょう。

 

ならば、身軽さなんて求めないほうが良かったか?

と、考えてみると・・・

好ましくない状態は、それはそれで良かったのでしょう。

身軽さを手に入れるための通過儀礼と捉えればいい。

と言うより、通らざるを得ない道だったと。

これまでと全く違う考えに乗って行くことになるのだから、多くの事を考えさせられるのは当然の事だった。

 

必要以上に物を欲しがったり、必要以上に物を捨てたがったり。

身軽になっていく過程のなかで、そんな気持ちを克服する事が出来たのだから。

いろんな呪縛からも逃れられたし。

なにより身軽で居られるようになった。

また、そんな身軽な状態の味を占めたいま、昔の事を想像すると、あの頃には絶対戻りたくないという感情しか湧き出ない。

その感情こそが答になるのかと。

という訳で、これからもより身軽になれる事を考えながら、ゆるくいきたいものです。

 

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