最近は昔みたいに地震にビビったり、ビビッて生活に支障を来すような事は無くなりました。
が、とりあえず毎日の地震情報チェックは欠かせません。
日本列島は毎日どこかしら揺れている。
また、地震や災害と聞くと「方丈庵」がちらちらと頭に浮かびます。
方丈庵とは鴨長明が晩年の住処としていた小さな家の事。
「地震に遭遇して家が無くなってしまったら、小さい小屋でも建てて住もう」
なんて事を考えていたときに、方丈庵の事を知りました。
その方丈庵に住んでいた鴨長明の事ですが、よく知りません。
何となく、琵琶を弾く人?えらい人?、ぐらいの認識。
という訳で今回、鴨長明について詳しく知ろうと思い、調べてまとめました。
鴨長明とは
鴨長明(かものちょうめい 1155年-1216年)とは。
平安時代末期から鎌倉時代前期の歌人、随筆家。
「方丈記」を書いた人。
方丈記は日本最古の災害ルポタージュ
清少納言の「枕草子」
吉田兼好の「徒然草」
鴨長明の「方丈記」
以上は日本三大随筆と呼ばれている。
鴨長明の「方丈記」に関しては、大きな特徴があります。
当時の日本国内で発生した災害に関する記述があるという事。
「隠者文学の代表作」「日本最古の災害ルポタージュ」などと言われている。
- 隠者文学=俗世間との交わりを避け、隠遁する道を選んだ僧侶や隠者などによって書かれた作品群の総称。
鴨長明の人生
鴨長明の人生をざっくりと調べました。
参考にした動画です。
以下、まとめました。
賀茂御祖神社(かもみおやじんじゃ)の禰宜(ねぎ)鴨長継の次男として生まれる。
- 賀茂御祖神社(かもみおやじんじゃ)=通称は下鴨神社(しもがもじんじゃ)。所在地は京都市右京区。
- 禰宜(ねぎ)=神職。現在で言えば会社の役員クラス?
鴨長明は、神社の禰宜を継ごうとしたが、一族(鴨裕兼)の反対により実現せず。
和歌と琵琶の道に進む。(今で言うとミュージシャン?)
後鳥羽院第二度百首の歌人に選ばれる。
後鳥羽院に和歌所が再興され、鴨長明は寄人(りゅうど=職員)となる。
- 後鳥羽天皇(ごとばてんのう)1180年-1239年 鎌倉時代、第82代天皇。
- 和歌所=勅撰和歌集編纂(ちょくせんわかしゅうへんさん)のため、宮中に臨時に設けられた役所。
- 勅撰和歌集=天皇・上皇などの命により、書物にまとめられた公的な歌集。
鴨長明の熱心な勤務が後鳥羽院の目に留まり、父(鴨長継)ゆかりの河合社(賀茂御祖神社の摂社)の神官に推挙したが、またもや一族(鴨裕兼)の反対によって実現せず。
- 摂社=本社に付属し、その祭神と縁故の深い神を祭った神社。
失意の長明は50歳(推定)で出家してしまう。
その後、日野法界寺の近辺に移り、方丈の庵(いおり)を構える。
建保(けんぽう)4年閏(うるう)6月8日頃、当地で没したと推定される。
4度の被災体験
日本三大随筆と呼ばれている、「枕草子」「徒然草」「方丈記」。
鴨長明の「方丈記」に関しては、大きな特徴があり、当時の日本国内で発生した災害に関する記述がある。
一部抜粋してみます。
1177年 23歳 大火
身体一つでかろうじて逃れたものは、家財を運び出すことはできなかった。
貴重な財宝も塵となってしまった。
人がなす営みはみな愚かなものだが、これほど危険な京のなかに家を作ろうと財を費やし、心を悩ますことは、大層愚かしいことなのだ。
1180年 26歳 竜巻
家の中の財宝はことごとく空に舞い上げられ、冬の木の葉が風に吹き乱れるのと同じだ。
家が破壊されるばかりでなく、これを修理するあいだに怪我をして、身体が不自由になってしまったものは数知れない。
1181年-1182年 27歳 飢饉
二年間ほど、世の中に飢饉が続いて、表現できぬほどひどい事があった。
春夏の日照り、干ばつ、秋冬の大嵐、洪水など、悪天候が続いて、五穀がことごとく実らなかった。
こんな有りさまなので諸国の民は、あるものは国を捨て、あるものは自分の家を忘れ山の中に住む。
さまざまの祈祷がはじめられ、とびきりの修法も行われたがその兆候も出ない。
京に上る者もなくなり、食料が欠乏してきたので、取り澄まして生活することはできなくなってしまった。
耐え切れなくなって、さまざまな財産を捨てるように売ろうとするが、てんで興味を示す人もいない。
まれに売れたとしても、金の価値は軽く、粟は重く評価される。
物乞いが道ばたに多く、憂い悲しむ声は耳にあふれる。
前の年はこのようにしてようやくのことで暮れた。
翌年こそは立ち直るはずと期待したのだが、あまつさえ疫病が発生し蔓延したので、事態はいっそうひどく、混乱を極めた。
世間のひとびとが日毎に飢えて困窮し、死んでいく有さまは、さながら水のひからびていく中の魚のたとえのよう。
しまいには、そこそこのいで立ちをしている者が、ひたすらに家ごとに物乞いをして歩く。
衰弱しきってしまった者たちは、歩いているかと思うまに、路傍に倒れ伏しているというありさま。
遺体を埋葬処理することもできぬまま、鼻をつく臭気はあたりに満ち、腐敗してその姿を変えていく様子は、見るに耐えないことが多い。
ましてや、鴨の河原などには、打ち捨てられた遺体で馬車の行き交う道もないほどだ。
賤しいきこりや山の民も力つきて、薪にさえも乏しくなってしまったので、頼るべき人もいないものは、自分の家を打ち壊して、市に出して売るのだが、一人が持ち出して売った対価は、それでも一日の露命を保つのにも足りないということだ。
いぶかしいことには、こういった薪のなかには、丹塗りの赤色や、金や銀の箔が所々に付いているのが見られる木っ端が交じっていることだ。
これを問いただすと、困窮した者が古寺に忍び込んで仏像を盗みだし、お堂の中のものを壊しているのだった。
濁り切ったこの世界に生まれあわせ、こんな心うき目をみるはめになったことだ。
また、たいそう哀れなことがあった。
愛する相手をもつ男女が、その想う心が深い方が必ず先に死ぬのだ。
その理由は、自分の事を後にして、男であれ女であれ、ごくまれに手に入れた食べ物を、思う相手に譲ってしまうからなのだ。
従って親と子供では決まって、親が先に死ぬ。
また母親が死んでしまっているのに、それとも知らないで、子供が母親の乳房に吸いついているのもいる。
1183年 29歳 地震
大地震が襲った。
その有り様は尋常ではなかった。
山は崩れて川を埋め、海では津波が発生して陸を襲った。
地面は裂け水が湧き上がり、岩は割れて谷に落ち、渚をこぐ舟は波に漂い、道を行く馬は足元が定まらない。
まして都の内外では、至るところあらゆる建物は一つとしてまともなものはない。
あるものは崩れさり、あるものは倒壊する際に塵が舞い上がり煙のようだ。
地が揺れ家が壊れる音は雷のようだ。
家の中に居たなら、たちまち押しつぶされかねない。
走って飛び出せば、また地面は割れてしまう。
人は羽をもたず空を飛ぶことはできない。
恐ろしいもののなかでとりわけ恐るべきものは地震なのだと実感したことだ。
そういった中に、ある侍の六、七才の一人息子が、築地塀の蔽いの下で小さな家を作ったりして、他愛もない遊びをしていたのだが、この地震で急に塀が崩れて埋められ、無残に押し潰され、二つの目は一寸ばかりも飛び出してしまった。
その子供の遺体を父母が抱えて、声も惜しまず嘆き悲しんでいるのは、まことに哀れであった。
子供を亡くす悲しみには、勇猛な武者も恥じを忘れてしまうのだと改めて気づいた。
このような激しい揺れは短時間で止んだのだったが、その名残りの余震はその後絶えず続いた。
方丈庵
方丈庵とは、鴨長明の晩年の住居になります。
- 方丈(ほうじょう)= 1辺が1丈(約3メートル)の正方形。四畳半(9㎡)の広さ。
- 庵(いおり あん)=建物の名称。風流人など浮世離れした者や僧侶が執務に用いる質素な佇まいの小屋。
鴨長明が自ら設計したとされます。
簡単に分解組立が可能で、車二輪でどこでも移動できる、必要最小限の住まい。
大きな災害に遭遇して、俗世間と交わりを断ち、そんな人生を歩んできてたどり着いた住処。
「人間のやる事は、だいたい意味の無い事が多いが、それにしても京の街中に大きな家を建てたり宝物を集めたりしても、たった一夜の火事で灰になってしまう事を想えば、実にくだらない事である」
方丈庵(復元)下鴨神社(京都市左京区)境内の河合神社に展示。
引用:ウィキペディア
最後に感想
鴨長明は特権階級の身でありながら、小さい庵に住んでいた事を不思議に思っていましたが、今回調べた事でやっと疑問が晴れました。
大きな災害に遭遇していた。
更に、望む仕事に就けず、失意のどん底に落ちた。
そこから方丈庵へという展開。
納得いきました。
私も、もう50歳。
隠遁したい気持ちよく解ります。
そうは出来ないので、これからも俗世間と交わって生きていきますが。
いよいよ隠遁するときがきたら、庵を自力で建てるのも良いかも。